ルターは次の言葉を語ったと伝えられています。「十字架の恥辱の中に神の光は輝いている」と。神に逆らう人間が益々闇の世界へと向かう中、ゴルゴダの丘の上で、神の栄光の光は放たれ続けてゆきます。この光りこそが、神に逆らい剣を取って(振りかざして)滅びへと向かうわたしたちを救い出す恵みの光りなのです。その場を逃げ出した弟子たちですが、彼らは、主の復活の後、一人またひとりとエルサレムに戻り、集まって主イエスの言葉を伝え始めます。十字架の上の光を信じたからです。そこに聖霊の風が吹き、キリストの教会が生まれました。その光りの恵みを、わたしたちは間違いなく受け継いでいます。
神の時は、ともすれば、神のことを忘れ(神から離れて)眠っている間に来てしまうかもしれません。しかし、もうそのときは遅いのです。目覚めるときはとっくに過ぎ去っています。主は罪人たちの手に渡ってしまいます。神から離れてしまう恐ろしさに気づくことなく眠りこけてしまう弟子たちとわたしたちのために、十字架への道を歩まれるのです。ほんとうなら、この方ではなく、わたしたち一人ひとりが歩まねばならない十字架への道を進んでゆかれます。
キリストなる神を信じるとは、人間の決心や決意ではありません。いざとなったら、主を見捨てて逃げ去るような罪深さを抱えているわたしたちのために、神自らが御子キリストを撃たれたという何ものにも代え難い恵みにお応えしてゆくということではないでしょうか。勇ましい決心や決意は必要ありません。逃げ去った弟子たちは、その後、十字架と復活の主の福音を宣べ伝え始めます。ある者は殉教の死を、ある者は生涯を全うし主の福音を宣べ伝えてゆきます。「主に従いゆく」とは、十字架と復活の主の恵みに、それぞれの仕方で、ひたすらに、応えて行く道であるといえましょう。
「7あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。 8あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。 9それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」(Ⅰペトロ1:7~9)今は姿は見えないけれども、主イエスを信じ、愛し、喜びに満ち溢れて、その日を待ち望みつつ、わたしたちは主の食卓を囲み続けてゆくのです。
耐えきれなくなったイスカリオテのユダは自分から口を開きます。「先生、まさかわたしのことでは」と。すると、主イエスは言われます。「それはあなたの言ったことだ」と。主イエスは、イスカリオテのユダを責められはしません。「あなたが、勝手に、わたしだ!」といっているだけではないか。ここは、主イエスからの最期の呼びかけではないでしょうか。「ユダよ、未だ間に合う、悔い改めて、わたしのもとへ戻りなさい」と。主イエスは十字架の死の極みに至るまで、この呼びかけをやめることはありません。御自分を裏切り、主なる神のもとを去ってゆく一人ひとりに対して。
ここでの彼女が施したのはただの葬儀の準備ではありません。わたしたちの罪のために死なれる神の御子キリストの死への備えをしたのです。だから、主イエスは宣言なさったのです。「13はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」と。
このみ言葉に込められている主イエスの深い御思いに、もう一度祈りを合わせてゆきましょう。
日本基督教団信仰告白には次のような個所があります。「愛のわざに励みつつ、主の再び来りたまふを待ち望む」と。この前には礼拝と聖礼典を守ることが記されています。まずは、主イエスキリストなる神を礼拝すること、このことを疎かにしてはなりません。そして、そこをベースにして、キリストの愛のわざに倣うような生き方が醸し出されることを、主は求められているといえましょう。永遠の罰を受けるか、永遠の命に与かれるかの違いは、そこにあるのだといえましょう。
主にある希望が希望として実現したとき(キリストの再臨の日)、被造物もまた、わたしたちと共に救われるのです。その世界とは、イザヤが語る光景なのかもしれません。「6狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。/子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。/7牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。/8乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ幼子は蝮の巣に手を入れる。」(イザヤ11:6~8)今見ている景色とはまったくことなる世界のことなのでしょう。
「29 だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」が神のお考えなのです。ここで主イエスがいわれる豊かさとは、主と共に生きる豊かさです。そのことに気づいて、神のために、持っているもの=神から与えられているものを喜んで差し出すことが出来る人は、さらに主と共に生きる喜びに満ち溢れるのです。しかし、そうでない人は、与えられているタラントンさえも失ってしまうような、すなわち、自分の人生とは何であったのだろうかと後悔する生き方に終わってしまうといえましょう。
花婿はやがて来られるイエス・キリストです。再臨の主が来られるまで、どのように待てばよいのか。答えは出てはいます。信仰のともし火を消さないことです。かといって、主の再臨のことばかり考えて、仕事も手につかない、ろくに眠れもしないという状態になっていなさいということではありません。この物語のおもしろいことの一つは、信仰が眠ってしまうことです。しかし眠っている間も、信仰の灯火は消えないでくすぶり続けます。神による救いの恵みは消え去ることはありません。くすぶっている信仰の灯火を整えなければならない日、それがキリストが来られる最後の審判の日です。そのとき、あなたは信仰のともし火を整えることが出来ますかという主からの問いかけです。