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立川の小さな教会(日本基督教団 西東京教区)
2026年08月23日(主日礼拝)マタイによる福音書 25章1節〜13節「祈りの油をください」 道家紀一牧師

花婿はやがて来られるイエス・キリストです。再臨の主が来られるまで、どのように待てばよいのか。答えは出てはいます。信仰のともし火を消さないことです。かといって、主の再臨のことばかり考えて、仕事も手につかない、ろくに眠れもしないという状態になっていなさいということではありません。この物語のおもしろいことの一つは、信仰が眠ってしまうことです。しかし眠っている間も、信仰の灯火は消えないでくすぶり続けます。神による救いの恵みは消え去ることはありません。くすぶっている信仰の灯火を整えなければならない日、それがキリストが来られる最後の審判の日です。そのとき、あなたは信仰のともし火を整えることが出来ますかという主からの問いかけです。

2026年08月16日(日本伝道の推進を祈る日礼拝)マタイによる福音書 24章45節〜51節「神は思いがけない時に来られる」 道家紀一牧師

共に生きて行こうとする祈りの姿勢が大切です。思想信条も異なっているかもしれません。だからといって、排除したり、無視したりするのではなく、その人のために、その人が生きている社会のために、神の祝福があることを祈ることです。それから余力があれば、具体的な活動をしてゆけばよいのです。キリストはいつお出でになられるかばかりを気にして、そのときになったら、良き僕を繕おうとして、叱責に遭う偽善者ではなく、いつキリストが来られても、主が愛された人々と共に生きる祈りを保ち続けること、それが、「よくやった僕」として主に受け入れられ、全てのことを任せられるという賞与、永遠の命という代えがたい恵みと祝福に与かることになるのだと信じます。

2026年08月09日(主日礼拝)マタイによる福音書 24章32節〜44節「目をさまして、用意をして待つ」 道家紀一牧師

主イエスはいわれるのです。「目を覚ましていなさい」と。お仕えする主人がいつ帰って来てもよいように。それは24時間365日起きているということではありません。賢い主人が泥棒に遭わないよう夜間の警備を怠らないように「警戒していなさい」ということです。目覚めていなさいとは、信仰のまなざしを磨いていなさいということです。それが、思いがけない時に来られる人の子に対する備えとなります。信仰のまなざしを磨くのに必要なのは「祈り」です。世の中には、いろいろなことが起こってきますが、そのとき、うろたえることなく、祈り続けること、最後まで、祈りをもって、耐えて耐えて耐え続ける先に、その日、その時は、やって来るのですから。それしかありません。

2026年08月02日(平和主日礼拝)コリントの信徒への手紙 一 13章1節〜7節「愛―富と力は人のために用いる―」 佐久本正志牧師

聖書が語る愛は人の愛ではありません。神の愛です。しかし人は、自分の欲望や本能の赴くままに行動し、争いや搾取を繰り返しています。このことをわたしたちはよく学んでゆかなくてはなりません。人を脅して神の愛を語っていないか。パウロはそのような自分の罪をよく知っていました。自分の罪に気づかされ悔い改めること、それが大切です。そして、神の愛に生かされた新しい人間として、神の働きに加わって生きる時、それが最高の人生であり、神に祝福された人なのです。主イエスは「富は天に積む」といわれます。この世の価値観(富と力)を教会に蔓延させてはなりません。教会は神の愛のみを証しすべきです。それが伝道です。

2026年07月26日(主日礼拝)マタイによる福音書 24章15節〜31節「世の終わりに来る方」 道家紀一牧師

神の戦いの最後には、天体も揺り動かされます。そのとき、地上の人々の多くは、長きに亘る戦いに疲れて、嘆きと悲しみに覆われています。ですが、そのような状況に至って、まさに救い主なる再臨のキリストが来られるのを(かつてダニエルが預言したような仕方で)見ることとなるのです。大きなラッパの音が響きわたる中、救い主は、天の使いたちを用いて、最後まで耐え忍んで、救い主を待ち続けた人々を呼び集めて、天の御国へと連れていってくださるのでしょう。祈りをもって耐え忍び続けてゆく中で、やがて来るであろう、いいえ、必ず来るであろう神が全てに決着をつけられる日(大いなる日=終りの日)を待ち望むことが出来るのだと信じます。

2026年07月19日(日本伝道の推進を祈る日礼拝)マタイによる福音書 24章1節〜14節「世の終わりは終わりではない」 道家紀一牧師

主イエスは言われます。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と。人間的に頑張って力づくで耐えるのではありません。主に在る希望を携えて(身に帯びて)今の艱難を耐え忍ぶのです。使徒パウロは語ります。十字架と復活の主イエスの愛から、わたしたちを引き離すことは出来ないのだ(ローマ8:39)と。どんな状況にあろうとも、神の愛はここにあると信じ続けること、主に在る希望をもつこと、それが「救い」です。この救いの福音は、最後のときまで、宣べ伝えられ続けます。人の考える終りが終わりではありません。世の終わりとは、神に逆らう諸々の勢力が支配する時代が終わるときなのです。それはわたしたちの想像をはるかに超える「神に支配された=永遠の命の世界」です。

2026年07月12日(主日礼拝)マタイによる福音書 23章34節〜39節「預言者の嘆き」 道家紀一牧師

十字架のときには、神から遠く離れていた者たちも、その後、復活と昇天を経て、再び、地上に主イエスが戻られる時には、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う人々の群れの中にいることになるであろう、という主イエスは預言(希望の祈り)しました。神から遠い者、近い者を決めるのは、主イエスなる神です。間違っても、ファリサイ派と律法学者たちのように、他者の信仰を評価し、自分を高めるような愚かさに陥ってはならないと思います。「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられる」と正しい人ヨブは語りました。これは真実です。パウロも、「主の為に生き、主の為に死ぬ」と語りました。信仰の勝利とは、この言葉に生きることではないでしょうか。

2026年07月05日(主日礼拝)マタイによる福音書 23章23節〜33節「偽りの信仰と本物の信仰」 道家紀一牧師

主イエスは、自分がまっさきに、ファリサイ派と律法学者、そしてわたしたちに代わって、陰府に向かってくださいました。神からもっとも遠い場所へ、神の子が自ら向かわれたのです。ここに、わたしたちの救いがあります。ファリサイ派と律法学者、他ならないわたしたちが向かわねばならなかった場所=ゲヘナ(地獄)へと、主イエスは代わりになって、向かってくださったのです。十字架の死は、ただの身代わりの犠牲ではありません。神に撃たれるしかない、神の怒りから免れようがないわたしたちをその罪の恐ろしさから救い出してくださった恵みの出来事といえましょう。そして、三日後の復活は、神の愛とご計画から出たことであったとの紛れもない証拠となったのです。

2026年06月28日(主日礼拝)マタイによる福音書 23章13節〜22節「天の国を閉ざす者」 道家紀一牧師

神が望まれるのは、偽りのない信仰だけです。いたずらなパフォーマンスなど求めはなさいません。でありますのに、わたしたちは、神の存在を忘れ、神の前にへりくだることを疎かにし、自分たちが満足するような仕方で神を礼拝し始めます。宗教改革者ルターはこういう言葉を残しています。「偶像礼拝とは、人間が満足するように礼拝をし始めることだ」と。わたしたちは、自分たちが満足し幸福を得るために礼拝をささげ信仰を続けてゆくのではありません。神が満足し、神の前に真摯に仕えるわたしたちをご覧になって「幸いである」と認めてくださるために、礼拝をささげ、信仰を続けてゆくのです。

2026年06月21日(日本伝道の推進を祈る日礼拝)マタイによる福音書 23章1節〜12節「高ぶる者とへりくだる者」 道家紀一牧師

教会には罪の赦しの権威が与えられていますが、その権威はこの世の権威とは違います。主イエスは、そのことを最後に戒められます。「あなたたちのうちで一番偉い人は、仕える者になりなさい。12だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と。神の愛と教えを世に伝える役割を教会は与えられています。しかしそれは、ファリサイ派と律法学者たちが行っていたような仕方であってはなりません。上から目線ではなく、神と世と人に仕える者として、また、神と世と人にへりくだる者として、伝えて行くのです。その伝え方は、十字架に架かりゆく主イエスの後ろ姿に倣う(キリストに倣いて:イミタチオクリスティ)しかないといえましょう。